御所市の九品寺から、葛城古道を南へ歩く。道は葛城山の麓をなぞるように続き、東の眼下には、奈良盆地がひらけている。秋のお彼岸を迎えた今、田の稲穂は色づきはじめ、その畦に沿って、彼岸花が赤い列をつくっている。一言主神社までは、およそ一・五キロ、歩いて二十分ほどの道のりである。
九品寺は、奈良時代の僧、行基が開いたと伝えられる寺である。境内の一角には、千体石仏と呼ばれる小さな石仏が、肩を寄せ合うように並んでいる。南北朝のころ、この地の楢原氏が、南朝方の楠木正成に味方して戦に向かう際、身代わりとして石仏を彫り、菩提寺であったこの寺に奉納したものと伝えられている。
彼岸花の茎には、葉が一枚もない。秋雨のころ、地面から茎だけがまっすぐに伸び、一日に十センチ近くも背を高くして、やがて赤い花をひらく。花は一週間ほどで枯れ、そのあとになって、同じ球根から細い緑の葉が伸びてくる。葉はそのまま冬を越し、春までのあいだ日の光を受けて、球根に養分をたくわえる。そして初夏には枯れ、地面の上には何も残らなくなる。花は葉を見ず、葉は花を見ない。そのため、この花は古くから「葉見ず花見ず」とも呼ばれてきた。
この世は、全てが『表裏一体』である。
何かを一方的に追及しても、 それを追及しつくすことは出来ない。
何かを追及するには、その対極にあるもの、 つまり表裏の関係にあるものを知らなければならない。
例えば、 『相手のことを知りたければ、自分を深く知る。』 『精一杯生きたいのなら、死と向き合う。』 『一方の意見を検証するのに、他方の意見を聞く。』 など。
そうすることで自分が元々追及したかったものを より深く知ることができる。
もし、どちらか一方に立って、 もう一方を指さしているのでは、 永遠に対立の軸から抜けられず、 よって本当の『理解』、真理の『追求』は叶わない。
陰があって陽があるのである。 陰がなければ、陽は陽として存在できないのである。
そして、それは逆もまた然り。
この世の『表裏一体』は対立ではなく、両立である。
道の途中で振り返ると、畦の赤い列の向こうに、盆地が秋の日を受けて広がっている。やがてこの花がしおれ、茎が倒れると、同じ場所から、細い緑の葉が伸びはじめる。まわりの草が枯れていく冬のあいだ、その葉だけが、畦の上で青々としているだろう。来年の秋、この畦にふたたび赤い列が戻ってくるのは、人の目に留まらない冬のあいだ、あの葉が日の光を受けつづけていたからだ。