第 113 回

奈良町の一角、創業150年を数える墨工房「錦光園」の暖簾をくぐると、独特の香りが鼻をくすぐる。国内で使われる書道用の固形墨は、その九割五分までもがこの奈良で作られているという。ここで体験できる「にぎり墨」は、生の墨を自分の手で握って形づくる、一見すると単純な作業に思える。

その思い込みは、差し出された棒状の生墨を手に取った瞬間に崩れる。想像していたよりもずっしりと重く、掌に吸い付くような独特の柔らかさと温もりがあり、力の入れ方一つで形が思うようにまとまらない。ぎゅっと握りしめても、生墨は指の間からわずかに滲み出るように形を変え続け、なかなか思い通りにいかない。

何度か握り直し、力の加減や指の角度を少しずつ変えていくうちに、ようやく自分の指紋が刻まれた一本の生墨が仕上がる。桐箱に納められたその墨は、これからさらに三ヶ月、温度差のない静かな場所で乾かされて、初めて墨として使えるようになるという。

人生において、時には不慣れなことや、 新しいことに取り組まなくてはいけない時がある。

いざ取り組んでみると、想像していたよりも ずっと大変なことだった、というのはよくあることだ。

上手く出来ないから、 上手くできる様に工夫が求められる。

やはり、自分にとって知らないことや、 新しいことは視野を広げ、 新たな能力を培うことにもつながる。

錦光園の工房を出る頃には、掌にはまだ、あの独特の重みと香りの記憶が残っている。ただ握るだけだと思っていたひとかたまりの墨が、指紋という消えない跡を刻みながら、これから三ヶ月をかけてゆっくりと乾き、誰かの筆と出会う日を静かに待っている。

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