第 086 回
猿沢池のほとりに、小さな社が静かに佇んでいる。采女神社という。多くの人は、興福寺の五重塔を映すこの池の水面に目を奪われ、社の存在に気づかないまま通り過ぎていく。
伝説によれば、この社はかつて帝の寵愛を失ったひとりの女官の魂を慰めるために建てられたのだという。彼女はこの池に身を投げたと伝わる。しかし人々は、その魂に己の最期の池を永遠に見つめさせるのはあまりにも忍びないと考え、社殿をそっと池に背を向ける形で建てたのだと言い伝えられている。
由来を記した立て札は小さく、気づく人は少ない。ただ、その静かな向きだけが、遠い昔、誰かが誰かを想った証として、今日もひっそりと猿沢池のほとりに残っている。
人との出会いが人生を変える。
「恩返しの為にも、その人のお役に立ちたい。」と思うのはごく自然のことだ。
しかし、その想いが強すぎると、行動が独りよがりになる。
と言って、その想いを滅するのはやはり寂しい。
程よく、さりげなく、その人の為になれるといい。
誰かのためを思う気持ちに、決まった形はない。ときには、そっと向きを変えるだけの、小さなやさしさでいい。