奈良盆地の南、橿原市の中ほどを、飛鳥川が流れている。その川にかかる蘇武橋を渡ると、今井町である。東西およそ六百メートル、南北およそ三百十メートル。十七・四ヘクタールのこの町には、およそ七百六十戸のうち、五百軒ほどの伝統的な建物が残っている。一つの保存地区に残る数としては、日本でいちばん多い。白い漆喰の壁、細かい格子、低く重なる瓦屋根。通りは、ところどころで折れ曲がり、先の見通しがきかない。家の前には、牛や馬をつないだ駒つなぎの金具が、今も残っている。
この町のはじまりは、天文年間(一五三二〜五五年)、本願寺の今井兵部が、称念寺を建てたことにある。寺のまわりに人が集まり、浪人や商人を招いて、町ができていった。戦国の世である。盗賊や、他の宗派や、大名の攻撃に備えて、町のまわりには濠と土居がめぐらされ、出入り口には九つの門が設けられた。元亀元年(一五七〇年)のころから、今井は武装した町となる。織田信長と本願寺が争うなか、今井は濠をさらに深くして、構えた。
天正三年(一五七五年)、本願寺が信長に降る。堺の茶人、津田宗及と、明智光秀のとりなしによって和議が結ばれ、今井は、濠を埋めることを条件に、武器を置いた。信長の朱印状が与えられ、町は「万事大坂同前」として、自ら裁き、自ら治めることを認められる。のちに「海の堺、陸の今井」と並び称され、「大和の金は今井に七分」と言われるほどに栄えた。文禄四年(一五九五年)の記録では、家はおよそ千二百軒、人はおよそ四千人を数えている。
人生において、ついつい無意識の内に、 他人を否定することで自分を肯定しようと してしまっていることは少なくない。
これはある種の人間の防衛本能とも言える。
しかし、ここで立ち止まって自分に問うてほしい。
他人を否定し、また他人を打ち負かして 果たして何になるのだろうか?
一時の優越感と、ちょっとした満足感の為だろうか?
或いは、自分の存在意義を世間に 声高に主張する為だろうか?
しかしそれでは、相手には遺恨が残り、 自分には虚無感しか残らない。
不要な防衛本能を意識的に捨て、 他人に優しく接しよう。
町を囲んでいた濠は、いま、そのほとんどが埋められ、道や家になっている。発掘の調査からは、濠が二つの時期に分かれること、十六世紀のなかばから後半にかけて掘られたものと、十六世紀の終わりから後に、新しく掘られたものとがあることが分かっている。比較的古いかたちを残していた西の端が、その調査をもとに整えられ、いまは幅十一メートルほどの濠が再現されて、今井西環濠広場となっている。その水面に、慶安三年(一六五〇年)に建てられた今西家の、八つ棟造りと呼ばれる屋根が映る。城のような構えの家である。濠は、外からの攻撃を防ぐためだけに掘られたのではなかった。町の排水路であり、大水のときには、水をためる遊水池でもあった。守りの役目を終えたあとも、水はいまもそこにあって、静かに家並みを映している。