奈良市の東の端、三重県との境に近い月ヶ瀬は、名張川が深い谷をきざんで流れる、山あいの里である。川の両岸の斜面には、梅の木が、見わたすかぎり植えられている。奈良の町なかより半月ほど遅く、三月の中ごろから下旬にかけて、谷は、白や紅の花に包まれる。
この里で、梅が盛んに植えられたのは、花を眺めるためではなかった。梅の実から、「烏梅(うばい)」をつくるためである。夏至のころ、熟して自然に落ちた実を拾い、水で湿らせてから煤をまぶし、燻して干す。すると、実は真っ黒に乾いて、固くなる。この烏梅は、紅花から鮮やかな紅色を染め出すのに、欠かせないものだった。南北朝のころ、後醍醐天皇に仕えた女官が、この里に製法を伝えたと言われている。江戸時代には、村人が畑や山を開いて梅を植え、最盛期には、十万本もの梅があったという。烏梅は、京都や大坂の問屋で飛ぶように売れ、里の暮らしを支えた。
江戸時代の終わりごろから、その眺めにひかれて、学者や文人がこの里を訪れるようになる。文政十三年(一八三〇年)には、津藩の儒学者、斎藤拙堂がここを訪れて紀行文を書き、翌年には、その文に筆を入れた頼山陽も、梅見にやって来た。拙堂の文は、のちに『月瀬記勝』として、広く読まれた。やがて明治に入ると、化学染料が伝わり、烏梅は、ほとんど使われなくなっていく。数は減りながらも、谷の梅は残り、大正十一年(一九二二年)、月ヶ瀬の梅林は、奈良公園、金沢の兼六園とともに、日本で最初の名勝のひとつに指定された。
ある目標や、目的を果たす為に 懸命に取り組んでいる過程で、 別の思わぬ良い結果や、効果が 現れることがしばしばある。
当初立てた目標や、目的が 仮に果たせなかったとしても 落胆することなかれ。
想像もしていなかった、 より良い結果がそこにあるかも知れない。
昭和四十四年(一九六九年)、下流に高山ダムができて、谷には湖が生まれ、谷底の梅の一部は、水の底に沈んだ。いま、花のころには、湖をはさんだ斜面いっぱいに梅が咲き、遠くから大勢の人が、それを見にやって来る。その里に、ただ一軒残る烏梅づくりの家では、今も夏至のころになると、落ちた実を拾い、煤をまぶして、昔と同じように燻している。春に人々が見上げる花と、夏に黒く燻される実は、同じ一本の梅の木から生まれている。