奈良の東のはずれ、山添村の神野山という山のふもとに、鍋倉渓と呼ばれる谷がある。幅は平均して二十五メートルほど、長さは六百五十メートルあまり。その谷底が、大小の黒い岩で、隙間なく埋め尽くされている。角閃斑れい岩という、地の底の深いところで固まった、たいそう硬い石だそうだ。まわりの山が、長い年月をかけて少しずつ削られていくあいだ、この石だけが崩れずに残り、古い谷の筋に沿って、川のように連なった。遠くから見ると、黒い溶岩が、音もなく流れ下っているようにも見える。
谷沿いには、木の板を渡した細い道がつけられていて、大きな岩のすぐわきを、上へとたどっていける。ある人が、その道の途中で足を止める。行く手は、見上げるほどの高さに積み上がった岩で、ふさがれているように見える。夏でも、木立の下はひんやりとして、岩の面には、うっすらと苔がのっている。その人は、しばらくそこに立ったまま、汗が引くのを待っている。
そのとき、足もとのあたりから、かすかな水の音が聞こえてくる。この谷は、水の涸れた沢ではない。黒い岩の、ずっと下のほうを、伏流水が流れているのだという。どれだけのぞき込んでも、水面はどこにも見えない。それでも、耳を澄ませば、たしかに水は、谷の下のほうへと動いている。木の道は、その岩のわきをすり抜けて、さらに上へと続いていた。
何か大きな壁や、問題にぶつかった時、 やるだけのことはやった上でだが、 どうしても撤退や断念をしなければならないことがある。
それ自体は決して悪い選択ではない。
しかし、そのやるだけのことというのが、 自分が思っている以外のことが 見過ごされることがある。
本当に、これ以上やることはないのか?
1度気分転換などをして、別の角度から見てみるといい。
思わぬ打開策が見つかることもある。
岩でふさがれて見えたあたりをすぎると、道はまた開けて、木立のあいだを、神野山のほうへ登っていく。振り返れば、黒い岩の連なりが、木の間に、静かに横たわっている。その下では、今も、誰に道を引かれたわけでもない水が、岩と岩のあいだを縫って、谷を下りつづけている。歩いてきた人は、しばらくその音に耳をかたむけてから、また一歩、坂の上へと足を踏み出した。