第 123 回

そっと、手を差し伸べる

奈良の高畑から山あいへと足を踏み入れると、能登川のせせらぎに沿って、古い石畳の坂道が続いていく。柳生の里へと抜けるこの道は「滝坂の道」と呼ばれ、剣豪たちも、峠を越えて商いに向かう人々も、幾百年ものあいだこの石を踏んできた。木々のあいだから斜めに差し込む午後の光が、苔むした石畳の上で、ゆっくりと形を変えていく。

その道のりの途中、街道からわずかに目を上げた岩肌の高いところに、一体の仏が彫られている。世に「夕日観音」と呼ばれるこの磨崖仏は、鎌倉時代の中頃、この地に弥勒への信仰が篤かった時代に刻まれたものだと伝わる。花崗岩の面に半ば埋もれるように立つその姿は、七百年ちかい風雨にさらされ、輪郭はやわらかく丸みを帯びている。名に「夕日」とあるのは、日が西に傾く頃、木立の切れ間から届く光がちょうどこの仏の面を照らし、金色に浮かび上がらせるからだという。

道を急ぐ人は、足元の石ばかりを見て、その前を通り過ぎていく。ふと立ち止まり、岩を見上げた者だけが、木々の陰からこちらを向いている静かな面差しに気づく。仏はただ、谷のほうを向いて、そこに在り続けている。

他人が何か困っている時、 思いやりをもって接することは肝要だ。

しかし、それが「この人のお役に立って あげなくては」という義務感の様なものになると 話は変わってくる。

それは、もはや強迫観念であり、 責任を背負いこんでしまう行為である。

そんな状態を避けることが、 必要な時にそっと、 その人に手を差し伸べられることにつながる。

夕日が木立の奥へと沈んでいくと、金色に照らされていた面は、また元の灰色の岩へと戻っていく。仏は今日、誰がその前を通ったのかを知らない。呼び止めることもなければ、後を追うこともない。ただ、日の傾く頃にふと足を止めて見上げた者にとって、それは確かにそこにあった。明日もまた、道は静かに続き、仏は同じ場所で、同じ谷を見つめているのだろう。

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